東京高等裁判所 昭和55年(行ケ)69号 判決 1982年11月16日
原告
富士大ゴム工業株式会社
被告
特許庁長官
主文
特許庁が昭和55年1月28日、昭和51年審判第151号事件についてした審決を取消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1当事者の求めた裁判
原告は主文同旨の判決を求め、被告は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。
第2請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
原告は、昭和46年3月5日、名称を「幼児用靴」とする発明につき特許出願をしたところ(昭和46年特許願第11257号。以下、この発明を「本願発明」という。)、昭和50年11月11日、拒絶査定を受けたので、昭和51年1月8日、審判を請求し、昭和51年審判第151号事件として審理された結果、昭和55年1月28日、「本件審判の請求は成り立たない。」との審決がされ、その謄本は同年2月25日原告に送達された。
2 本願発明の要旨
偏平な靴底に敷板を敷設固着してなる幼児用靴において、上記敷板を踵部と第5趾近傍に至る外側部とから一体形成してなり、その外側部前端から踵部内側縁前端にわたる内斜側を体の重心に向けて円弧状に形成するとともに、上記敷板を全体が0.5mmないし1.0mmの均一な肉厚に形成したことを特徴とする幼児用靴。
(別紙(1)参照)
3 審決理由の要点
本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。
ところで、実用新案出願公告昭和45年第23814号実用新案公報(以下、「第1引用例」という。別紙(2)参照)には、シユーズの平坦な底辺の接地面の踵部及びシユーズ内面の平坦な中底面の踵部内にそれぞれ防滑用踵片を接着したベビーシユーズが記載され、実用新案出願公告昭和30年第12626号実用新案公報(以下「第2引用例」という。別紙(3)参照)には、当底に前方足腹部、土不踏部よりその後方踵部及び外側部に向つて厚さを漸増し、かつ、土不踏部を土不踏の内側形状に合せて欠除した弾性版を接着した運動靴が記載され、また、昭和11年実用新案出願公告第8069号実用新案公報(以下「第3引用例」という。別紙(4)参照)には、外側周縁に踵部より爪先部にわたつて斜面をもつ補助皮を貼着した靴用敷皮が記載されている。
そこで、本願発明と第1引用例に記載された発明とを対比すると、両者は、幼児靴において、靴を着用した幼児が安定的に歩行できるように偏平な靴底に平坦な敷板(踵片)を装着したものである点で一致し、本願発明の敷板については、①平面形状に関して、踵部と第5趾近傍に至る外側部とから一体形成してなり、その外側部前端から踵部内側縁前端にわたる内斜側を体の重心に向けて円弧状に形成する点及び②断面形状に関して、0.5mmないし1.0mmの均一な肉厚に形成する点の限定があるのに対し、第1引用例のものには、踵片を踵部に形成したものである以外格別の限定がない点で相違する。
前記①及び②の相違点について検討するに、①については、第2引用例の運動靴は、幼児靴と用途が相違するが、その弾性版は、本願発明の敷板と平面形状においてほぼ同じであるとともに、土不踏部に向つて低く傾斜しているので、同じく、足部の外方へのぐらつきが阻止できること及び体の重心が安定した自然な立ち方及び歩行ができるという効果を持つ。また、第3引用例に記載されたものも、足の重心を斜面に従い常に内側に位置する作用を有する補助皮を貼着したものであるから、本願発明とほぼ同様の効果を奏する。そして、第2引用例及び第3引用例に記載された技術は、運動靴や敷皮だけにしか使用できないものではなく、かつ、第2引用例に記載されたものも偏平な靴底であり幼児靴も偏平な靴底を有するものであること及び第3引用例に記載された敷皮は靴底の一部を構成するものであるから、これらを幼児靴に適用することは、当業者であれば容易に推考できる程度のことである。
また、②については、第1引用例も幼児靴であつて、幼児用として用いる場合は、必要以上の厚さのものはかえつて不安定となるので、その厚さを0.5mmないし1.0mmに限定した点は、当業者であれば適宜採用する設計事項にすぎず、また、敷板を均一な肉厚に形成する点は、第1引用例のものにおいても踵片を前後方向に均一な肉厚にした点が記載されている。しかも、②の限定による本願発明の「歩行中足が前方向へ滑動することなく、敷板(3)上に安定よく支持され、したがつて、足が前方向に滑り、足指が靴の内面前端に衝接して柔弱な幼児の足指を痛め、その健全な発育を阻害するおそれが全く無い。」という効果は、第1引用例もほぼ同様に備えるものであり、その間に格別顕著な差異はない。
そして、前記①及び②の限定事項を総合して検討しても、本願発明は、第1引用例ないし第3引用例に記載されたもののそれぞれが有する作用効果から予想される以上の格別顕著な効果が期待されるものとも認められないので、結局、本願発明は、前記各引用例に記載されたものから当業者が容易に発明をすることができたものであり、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。
4 審決取消事由
審決が、つぎのとおり、各引用例との間に存する本願発明の構成上の本質的な差異及び顕著な作用効果を看過し、その進歩性を否定したのは、判断を誤つており、違法であるから、取消されねばならない。
1 本願発明は、体の重心に向けて第5趾近傍から踵部内側縁前端に向けて内斜側を1つの円弧状に形成した敷板を靴底に固着一体化した構成により、足部の骨格や筋肉が十分に発達しておらず、足の裏に脂肪が多く、球状に近い状態となつていて直立した時、重心の動きが前後、殊に横に大きく不安定である幼児の歩行時における体の重心の安定を確保するものであるが、かかる技術的思想は、各引用例に何ら開示されるところではない。
第1引用例に記載のベビーシユーズは、シユーズの平坦な底片の接地面の踵部及びシユーズ内面の平坦な中底面の踵部内にそれぞれ防滑用踵片を接着したものであるが、これは、あくまで踵部に形成されているものであつて、幼児が直立したときに、「足裏に脂肪が多く踵部がほとんど球状に近くて重心の動きが殊に横に大きく不安定である」事実に何の配慮もされていないので、履用した幼児が自然な立ち方及び歩行を安定してできるという効果においても、格段の差異を有するものである。
また、第2引用例の弾性版は、内側の切線が足腹部(5)と土不踏部(6)の2個の構成部分からなり、足腹部(5)、土不踏部(6)の2個の円弧部分の接点ならびにその近傍が内方へ突出することとなつて、これを履用したとき、体の重心を決定し難く、本願発明の敷板とは、それぞれの構成ならびに作用効果において、極めて大きな差異があり、本願発明の敷板と第2引用例の弾性版とが、その平面形状についてほぼ同じ形状のものとは到底いいえない。
さらに、第3引用例の靴用敷皮は、外側周縁に踵部より爪先部にわたつて斜面をもつ補助皮を貼着したものであり、この靴用敷皮を内設した靴を幼児に履用させた場合、幼児の足は滑動し易く、しかも、体の重心が決定しにくく、自然な起立状態を到底維持できないことは明らかである。
2 敷板の厚さの限定が当業者の適宜採用しうる設計事項であることは争わないが、敷板を0.5mmないし1.0mmの均一な肉厚に限定したことと、前記構成との結合により、乳幼児が履いたとき、体の重心が極めて簡単に決定でき、「振れ」も極めて小さく、足部の外方へのぐらつきが阻止でき、体の重心が安定した自然な立ち方及び歩行ができるという作用効果が極めて顕著であつて、これは、いわゆるピドスコープによる実験によつても十分確認されている。
第3被告の答弁
1 請求の原因1ないし3の事実は認める。
2 同4の取消事由の主張は争う。
本願発明が、原告主張のような目的よりする構成を有することは認めるが、各引用例に記載されたものから容易に発明をすることができたとする審決の判断は、つぎのとおり正当であつて、何ら違法の点はない。
第1引用例のものの目的及び構成が原告主張のとおりであることは認める。しかしながら、本願発明は第1引用例のものと比較して格段の差異を有するものとはいえない。
本願発明の敷板と第2引用例の弾性版7とを比較した場合、両者の内側形状及び断面形状に若干の差異があることは認めるが、その内側形状の円弧は体の重心方向に面し、踵部から第5趾近傍に至る外側部の形状には差異はないから、これらを用いた靴を幼児が履用した場合、足裏にかかる体重が体の内側に傾き、足の横外方へのぐらつきを防止でき、体の重心が安定するという基本的作用効果において、格別な差異はない。すなわち、第2引用例の弾性版7の内側に形成された2個の円弧部分の接点及びその近傍の内方へ突出する部分は、足裏の骨格上のアーチ部に対向する区域であつて、直立及び歩行動作時に体重のさしてかかる区域ではなく、かつ、靴における敷板の常識的厚さを前提とすれば、この内方へ突出する部分の存在によつて、体の重心を決定することが困難になるとは認められない。
第3引用例のものの補助皮2も、その内側端が足の重心の外側にあり、しかも、踵部と爪先部近傍では足の重心方向に面する弧状になつているから、足部の外方へのぐらつきを阻止する作用効果があり、本願発明の敷板がその内斜側を1個の円弧状に形成したものと、作用効果において差異はない。
原告は、第2引用例及び第3引用例の欠点として、靴内における斜面に沿つた足の滑動をあげるが、足と靴胛被の密着程度及び靴における敷板の常識的厚さを前提とすれば、斜面に沿つて足が滑動することは考えられず、むしろ、足裏にかかる体重を体の内側に傾けさせる点で安定要素になるものと考えられる。
また、平坦な敷板を用いる点については、第1引用例にも記載があるとおり、幼児用靴の敷板としてはむしろ一般的であるから、第2引用例及び第3引用例の弾性版7や補助皮2を敷板として幼児用靴に適用する場合、これを平坦な厚さのものとすることは、当業者が適宜にしうることである。
以上のごとく、本願発明の効果は、第2引用例又は第3引用例の敷板を第1引用例の幼児用靴に適用して得られる程度の効果であり、しかも、右適用による効果は当業者が容易に予測できるから、本願発明は、第1引用例ないし第3引用例から当業者が容易に発明をすることができたものであつて、審決には原告主張の誤りはない。
第4証拠関係
原告は甲第1号証ないし第6号証、第12号証、第13号証を提出し、被告は甲号各証の成立を認めた。
理由
1 請求の原因1ないし3の事実は、当事者間に争いがない。
2 そこで、原告が主張する審決取消事由の存否について検討する。
1 本願発明が、足部の骨格や筋肉が十分に発達しておらず、足の裏に脂肪が多く球状に近い状態となつていて、直立したとき重心の動きが前後、特に横に大きく不安定である幼児の歩行時における体の重心の安定を確保するために、第5趾近傍から踵部内側縁前端にわたる内斜側を体の重心に向けて1つの円弧状に形成した敷板を靴底に固着一体化した構成を有することは、当事者間に争いがない。
ところで、成立に争いのない甲第1号証ないし第6号証によると、つぎの事実が認められる。
第1引用例に記載されたベビーシユーズは、シユーズの平坦な底片の接地面の踵部及びシユーズ内面の平坦な中底面の踵部にそれぞれ防滑用踵片を接着しているが、これら踵片の平面形状は、いわゆるシユーズの踵部の平面形状と同一であり、靴の内部における足裏のすべりと、靴底接地面のすべりを防止し、その作用によつて幼児の足に疲労を与えずに歩行を安全にするものではあるが、本願発明の前記のような幼児の歩行時における体の重心の安定をはかる技術的思想は何ら示されていない。
また、第2引用例に記載された運動靴は、マラソン競技等における走行用のものであつて、当底と本底との間に、前方足腹部、土不踏部より、その後方踵部及び外側部に向つて厚さを漸増し、かつ、土不踏部を土不踏の内側形状に合せて欠除し、前端は足腹部の外側で終るように土不踏部前端から斜めに内反り円弧状に切除された弾性版を接着するとともに、本底も土不踏の形状に合せて欠除しているが、これは、走行中の衝撃緩和と爪先部の踏張力の減退の防止をはかり、また、土不踏部の外側を、踵部と足腹部と連続した1面に形成し、本底に接地による撓みや角を生じないようにして、土不踏部の肉刺防止をしようとしたものであつて、その弾性版の円弧状の形成も土不踏の内側形状に合せて前端が足腹部の外側で終るように斜めに切除したものであるから、前記のとおりの本願発明における敷板の円弧状の形成と、その形状は全く相違する。また、作用効果においても、土不踏の円弧部分と、その前端から足腹部の外側で終るようにした斜めの切除部分とが互いに独立して設けられた構成となつているから、殊に、脂肪が多くベタ足状態であり、踵部が殆んど球状に近くて体の重心の動きが横に大きく不安定である幼児特有の足裏状態を考慮すると、これを幼児用靴に適用しても、体の重心を1点に常時向けることは困難である。したがつて、第2引用例に記載されたものには、前記のような幼児の歩行時における体の重心の安定をはかる技術的思想は開示されていないといわねばならない。
なおまた、第3引用例に記載された敷皮は、裏面に補助皮を貼着することにより、その外側周縁より内側に向け、かつ、踵部より爪先部に向かつて斜状に厚さを漸減して、これを靴内に挿入使用する際に足の重心を常に内側に位置するようにし、靴の外減りと同時に上皮部の外側への膨出を防止することを目的としたものであり、これを幼児靴に適用すれば、前記のような特性を持つ幼児の足は靴内において内側及び爪先部方向に滑動し易く、かえつて、体の重心が不安定となるだけでなく、未発達な幼児の足に悪影響を及ぼすおそれがある。したがつて、前記のような点を特徴とする本願発明の技術的思想とは全く異なるものである。
そうすると、前記のような、幼児の歩行時における体の重心の安定を確保するためにとられた本願発明の構成は、各引用例のものと、本質的に異なつており、第1引用例ないし第3引用例に記載されたものから想到されるものではなく、それらを適用しても本願発明におけるような作用効果が期待できないことは明らかである。
2 前掲甲第2号証、第4号証、第6号証と、成立に争いのない甲第12号証、第13号証と弁論の全趣旨を総合すると、前1の項に認定したとおりの構成と特性とを持つ幼児用靴の使用時における幼児の体の重心の安定を確保する本願発明の作用効果は、極めて顕著なものであることが認められる。
3 以上の認定事実によれば、審決は、各引用例との間に存する本願発明の目的、構成上の差異及びその顕著な作用効果を看過し、その結果、本願発明の進歩性を否定したものであつて、判断を誤つた違法があり、取消を免れない。
3 よつて、審決の取消を求める原告の本訴請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用し、主文のとおり判決する。
(荒木秀一 舟本信光 舟橋定之)
<以下省略>